イベント・企画委員会とは

講演会、見学会などを学生が主体となって企画・運営する委員会です。

2009年度活動報告

現代中国のモンゴル人ジェノサイド
‐1960年代における少数民族大量虐殺の実証研究

2009年7月6日(月)楊海英氏 静岡大学教授

 2009年7月6日(月)の2限目に512教室(ECホール)において静岡大学教授の楊海英氏に『現代中国のモンゴル人ジェノサイド ‐1960年代における少数民族大量虐殺の実証研究』という題目で講演をおこなっていただいた。モンゴル民族である楊氏はモンゴルモンゴル語・漢語・日本語を駆使できる三言語話者であり、この高い言語能力を用いて、氏は自らの故郷である中国内蒙古自治区のオルドス地域(黄河湾曲部)における八白宮の祭祀(チンギス・ハーン祭祀)の研究で現地のフィールドワークをおこない、これまで日本語で数多くの著作を発表されてきた。最近では、中国ではその研究が著しく制限される中国共産党による文化大革命期(1966‐1976)におけるモンゴル人の大量虐殺に焦点をあてて、現地での関係者の聞き取り調査を丹念に記録するなどの地道な研究を進められておられる。氏は自らを”ネイティヴ人類学者”と呼んでいるが、いずれの研究もモンゴル民族のアイデンティティ問題に着目してこられた過程で生み出されてきたものといえよう。
 中国における文化大革命期に関する研究はいまだそんなに進んでいるわけではない。日本人の研究者はしり込みしがちな領域でもあるといえ、この点で氏の研究はこの方面の基礎的研究として重要な知見を与えつつある。氏の強調点は日本における既存の文化大革命観に対する変更を強く迫るもので、「少数民族」にとっての文化大革命とは、共産党による”民族ジェノサイド”にほかならないというところにある。階級闘争的側面から解説がなされることの多い文革であるが、氏は階級という縦ラインではなく、民族という横のラインを大胆に引いてみせられたのである。こうした氏の見方は今後大きな波紋を投げかけるものとして注目される。日本の知識人の多くが文革を当初絶賛していたことを考えると、この問題は他所事ではなく、真摯に受け止め考えるべき問題として立ちはだかっている。

(教員 藤井真湖)

一本のニュースから
・・・人口3000人の村で取材したこと・・・

2009年12月14日(月)阿武野勝彦 東海テレビ放送 報道スポーツ局専門局長

 お話の中心は、阿武野さんと岐阜県加茂郡東白川村のつながりです。東白川村は、名古屋から車で2時間ちょっとのところにある人口3000人未満の小さな村で、観光資源も何もないところ。
 阿武野さんは1992年から二年間、岐阜の支局にいました。記者一人で、当時、岐阜県77市町村をカバーしていたそうです。たまたま、この村に出会い、そのとき「平和の礎」という本を手にしました。村の戦争の記録を綴ったもので、それをもとに本社にもどってから、一年半かけて「村と戦争」という番組にしたそうです。1995年、戦後50年です。この番組のエピソードを聞いて戦争の事を知らない学生は下記のような感想(※1)を書いています。  「村と戦争」の時に、取材に協力した村の青年が中心になって、その後、村のケーブルテレビを開局しました。そしてこのケーブルテレビについて、3本のニュースにしたそうです。今回、視聴した「2967分の一の物語」というニュースでは、大きなテレビ局には見られない、テレビを通じた身近なコミュニケーションが展開しています。このケーブルテレビでは、地域の固有の記憶を共有すること、地域に愛着を感じることをねらいに地元の方言を取り上げる「しっとらっせるけ」というコーナー企画を行っています。これについて昨年10月に放送したニュース企画についてビデオで紹介されました。メディアの仕事の一つは、地方に起きていることを伝える事だといいますが、これについても学生から感想(※2)がありました。
 おしまいに「伝えたいことの根底にあるのは、温もり」「メディアを育てるのは、地域の人々」とまとめられました。

<感想>
※1「一番初めの戦争のVTRに衝撃を受けました。毎日、日記をつけていた(死んだ)兄の一言一言が深くていろんなことを考えさせられるようでした」「私たちの世代にとって戦争というものは遠い存在になりつつあり・・・これから過去の歴史を語る人々がいなくなったら、メディアでも戦争という題材はあまり扱われなくなってしまうのではないかと少し恐ろしくなりました」
※2「東白川村のケーブルテレビの活動で、村の人々の笑顔を見る事が出来て、なんか心が温かくなりました」「メディアを通してだけれども、その時の人々の感情や抱いている思いというのが、とても真っすぐに伝わってきました」「メディアは様々な人々の暮らし、生き方を様々な人に伝え、いつまでも残していくためにとても役立つ、重要なものだと感じました」

(教員 大西誠)