創造表現学会主催「棚園正一トークセッション」イベントレポート

 2020年1月17日(金)長久手キャンパス512教室にて、漫画家・棚園正一さんをお迎えしてのトークセッション「不登校だった少年時代 漫画を描き続けた。そして、自分と世界が変わった。」が開催されました。

今回のトークセッションは創作表現専攻・劉永昇ゼミの学生が主導した企画で、司会進行も劉ゼミの学生2名によって行われました。1時間半の講演のうち、前半はゼミ生から棚園さんへの質問を通じて、漫画家を目指したきっかけや、ネタ探しやモチベーションのあげ方など“創作のコツ”についてお話していただき、後半は参加者も交えての質疑応答となりました。

 棚園さんは小学生のとき不登校となり、小・中の9年間はほとんど学校に行けなかったそうです。

 大好きな漫画『ドラゴンボール』の影響で13歳のときから漫画を描き始めましたが、その動機は「学校に行っていないことへのコンプレックス」だったといいます。「漫画家にならなければ生きていけない」という強い気持ちが棚園さんの漫画創作の原動力でした。

 以降は劉ゼミおよび参加者の学生からの質問と、その応答を抜粋してご紹介します。

――漫画のネタはどのように考えていますか?

 編集者とのディスカッションが主。作者の希望のみではほぼ通ることはないそうです。

 棚園さん自身は「人との日常の会話」や、また図書館の児童書コーナーを見て回ることでも創作のヒントを得ているそう。「大人向けの書籍よりも児童書のほうが掲載されている情報が絞られているため、要旨を掴みやすい」とのこと。

 現在不定期連載中の『マジスター~見崎先生の病院訪問授業~』も、児童書コーナーにあった難病の子どもの本から生まれたアイデアで、当初は「院内学級」をモチーフにしようと考えていましたが、院内学級に参加している子どもたちのケースが多岐に渡りすぎていて上手くまとめきれなかったといいます。そこで新たに見つけたのが、『マジスター』原作者である山本純士さんの小説『15mの通学路』でした。この小説を読むことで、子どもの立場からだけでなく「保護者・先生」目線も含めた漫画が描けそうだと直観した棚園さんは、ほうぼうツテを頼って山本さんに直談判をしました。一般的に取材は出版社の編集部が間に入るそうですが、棚園さんは単独で「漫画を描かせてほしい」と頼み込んだのです。

 そして、山本さんと何度も相談を重ね、完成した1・2話の「ネーム」を出版社に持ち込み、作品を発表することができました。

――創作活動のモチベーション、創作するにあたってのこだわりは?

 棚園さんは「学校に行っていないこと」へのコンプレックスからなかば強迫的に創作へ向かっていました。『学校へ行けない僕と9人の先生』は完全に、自分のために描きあげたそうです。しかし、作品を発表したことで読者から「棚園さんの漫画を読むことで救われた」「勇気をもらった」「励まされた」という声が届くようになって意識の持ち方が変わり、「自分のためにではなく、読者のため、人に喜んでもらうために描く」という考え方ができるようになったといいます。

 「人間を描くこと」「共感してもらえるように描くこと」「説明・台詞過多にならずに伝えられるよう描くこと」にこだわって創作しているそうです。

――実在の店「漫画空間」のような地元ネタを描こうと思ったきっかけは?

 大須にある実在の「漫画を描ける喫茶店」である「漫画空間」を題材にした作品「まんくう」を描き、それが話題となって棚園さんは現在の仕事への足掛かりをつかみました。きっかけは、「漫画空間」のオーナーと知り合いで開店前から喫茶店の構想を聞いていたこと、開店後の客足の悪さをみかねた先生が「店の宣伝になれば」と漫画を描いたことでした。

完成した漫画を出版社に持ち込み、雑誌に掲載されたところ好評で、「漫画空間」がドキュメンタリー番組の取材を受けることになり、そこで棚園さんもご自身の来歴についてインタビューを受けました。そこで不登校時代のエピソードが編集者の目にとまり、『学校へ行けない僕と9人の先生』の執筆に繋がったのです。

 地方から都市に出ず創作活動をすることは、「その地方在住であるという特性を売りにする」側面も大いにあるといいます。また、地元で活動を続けていると同業者も知人ばかりになって、世間は狭くなりますが、良さもあるといいます。

――これから書いてみたい題材は?

 司馬遼太郎が好きなので、時代もの。伊勢神宮の式年遷宮の際に使用されるヒノキを提供していた美濃の国(岐阜県)の、林業をやっている一族の物語を描きたいそうです。

――1日のスケジュールは?

 棚園さんは現在、平日昼は専門学校での講師をし、講師の仕事を終えて帰宅してから漫画を描くというスケジュールで仕事をされています。夜から明け方まで原稿、明け方から朝まで就寝し、また朝から講師の仕事……それ以外にも講演会などの仕事があり、かなりのハードワーク!

 好きだから続けていられる、と先生は語りましたが、どうか健康には気をつけていただきたいです。

――アナログ原稿の良さは?

 棚園さんはアナログとデジタル、両方を用いて漫画原稿を描いています。

『学校に行けなかった僕と9人の先生』はすべてアナログ原稿、『マジスター』はアナログ・デジタル半々(下書きをデジタル→ペン入れをアナログ→ベタ・トーン・効果線など仕上げをデジタル)です。

 アナログ原稿の良さには、活き活きとした線の運びや、手描きの質感などがあげられましたが、最近はデジタルでもアナログらしいニュアンスが再現できるようになってきており、また、アシスタントさんとのやりとりをする際にもデータ化された原稿のほうが楽! とのこと。

 漫画家の仕事場、と聞くと「同じ部屋に漫画家とアシスタントがいて、原稿を手渡しして指示しながら一緒に作業する」というイメージがあるのではないでしょうか。デジタルで作品を仕上げる場合、アシスタントさんに手伝ってほしい原稿はファイル共有アプリを使ってデータを送り、仕上げてもらった原稿もクラウドを介して確認するため、制作過程でアシスタントさんと顔を合わせる必要はほとんどないそうです。

――なぜ『ドラゴンボール』だったのか?

 やはり先生ご自身が子どもだった当時の、「国民的漫画」だったことは大きい、といいます。また主人公の孫悟空が「悪の存在から世界を・人々を救いたい」という精神をもった「善人」ではなく、「誰よりも強くなりたい」という気持ちだけでストーリーを展開させていく部分があり、その理屈を超えたシンプルな強さに惹かれたそうです。また、難病の子どものドキュメンタリー映像で、子どもが「悟空みたいに強くなりたい」と書いていたことにも感銘を受けたそう。

 専門学校で漫画の勉強をしていたとき、後輩(のちに『週刊少年ジャンプ』でデビューする)の才能に打ちのめされた棚園さんは、敬愛する鳥山明先生からも「作風が『ジャンプ』に向いていない」と言われ、漫画家になる夢を諦めて就職しようとしました。けれどそのタイミングでアニメーション作画の仕事が舞い込んできたり、別の出版社から声がかかったりして、漫画家の道になんとなく戻る流れがあり、それが現在まで続いているそうです。しかし、先生の話を聞いていくと、自ら原作者を探してアポをとったり、書き上げたものをたくさんの出版社に持ち込んだり、仕事に繋げるための積極的に売り込んでいく姿勢が一貫してあるとも感じられました。

 どんな仕事にも言えることでしょうが、とくに創作に関しては「漫画を描き続ける」という情熱を持つことが、「漫画家である」ということなのだろうと思えるトークセッションでした。