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インタビュー

10年先20年先を見据える創立以来の進取の精神

明治38年に愛知県下初の私立女学校として開学、女性教育におけるこの地方屈指の名門として常に先進の教育を目指してきた愛知淑徳学園。その伝統を受け継ぎ昭和50年にスタートした愛知淑徳大学は、男女共学も断行し大きな変化を続けている。

 ―名古屋の女子教育の名門校として長い歴史を刻み、九十周年を迎えた平成七年からは大学が男女共学となるなど新たなステージを歩み始めた貴学ですが、そもそもどのような経緯で設立された学園なのですか。

小林: この学園は明治三八年にできまして、つくったのは私の祖父に当たる小林清作で、東京大学を出てから、京都で新聞記者をしていた人です。なかなかの宗教家だった義理の母が名古屋へ来た折に、高等女学校に行きたくてもいけない人がたくさんいることを聞き、太っ腹な人だったのでしょう、「それでは私がやりましょう」と。その後寄付などを募って見通しが立ったので実際の運営をどうするかということになり、義理の息子に「やらないか」と打診。そして「愛知淑徳女学校」でスタートし、翌年、愛知県で初めての私立の高等女学校になったわけです。
 そんなわけで創立者が元新聞記者で時代に敏感だったものですから、女子に学問は不要といわれた時代にあって、「良妻賢母になるためには時代感覚に優れていないといけない」と英語科目を必修にし、もう一つ、体育を奨励したんです。

 ―乙女たちが肌を出して運動するなど、当時の感覚では大変なことだったのでしょうね。

小林: 当時、高等女学校に通うのは庄屋のお嬢さんとかの特権階級。そのお嬢さんたちの集まりに体育を奨励するというのは、あの時代の″深窓の令嬢″"という風潮の中ではものすごく珍しいことで、「ブルマーと称するものをはくとは、公序良俗に反するのではないか」と、大問題になったそうですが、元新聞記者ですし、意地っ張りだったのでしょうな。「十年先、二十年先を考えない教育をしていてはダメなんだ」と主張したそうです。
 そのほか、修学旅行をやったのもこの辺では一番最初だったようで、伊勢への一泊旅行を実施。「女子を集団で外泊させるなど、何かあったらどうするんだ」と父母の大反対があったそうです。
 さらに、洋装の制服を採用したのも最初で、それは当初、誠に評判が悪く、二年くらいは生徒数が激減しましたが、「今がダメだからといって、ずっとダメだということはあり得ない」と意地を押し通し、そのうちに時代が追い付いてきたんですよ。
 この「十年先、二十年先の人材を育成する」「いいと思ったことは思い切ってやる」という創立のころの精神は、淑徳魂として今もこの学園に生きていると思います。

 ―その後、昭和二二年に中学校、三六年に短期大学、そして五十年には大学ができ、総合学園として大きく発展してきたわけですが、どのような構想で大学づくりを進めてこられたのですか。

小林: 大学開学と同時に設置された文学部には英文学科、国文学科があり、入学定員は当初各五十人だったんですよ。一学年百人で全校で四百人。私も英文学科の教員をやっていましたが、誠にさびしいんですわ。
 確かに育ちの良いお嬢さんたちが入学していて、先生との交流もあり、こぢんまりした女子大の良さはありましたが、クラブ活動は活発じゃないし、財政面からいっても全くの赤字。いくら小規模でも図書館など最低の施設は要りますから、それを維持しようとすると、一学年二百人はいないといけないな、と。
 そこで考えたのは、国際情報学科をつくるということでした。最初は新しい学部の中につくりたかったんですよ。でも、学部をつくるだけのお金がなかった。だから文学部の中につくろうと思って文部省に申請したのですけど、何度通っても「国際情報学科だったら新たに学部をつくることしか考えられない」と門前払い。しかし当時は情報化時代といわれ始めていたころですから「情報」の二文字は欲しい。
 そこで、当時の文部省は前例主義でしたから、全国の大学の文学部の中で「情報」と付いている学科を探したら「図書館情報学科」しかなかったんですよ。「まあ、地味な感じもするが、これでいくか」ということになって、六十年に同学科をつくり、英文、国文も大きくして、一学年各学科百人ずつの計三百人としました。

 ―開学当時の三倍の規模になったわけですね。

小林: これで経営的にもちょっとゆとりができましたので、じゃあもう一つ、もっと新しいものをやろうとなったのですが、学部をつくるとまた経営を圧迫してしまうのでまだ早い。文学部の中でつくりましょうとなりました。

 ―それが心理学を中心にしたコミュニケーション学科ですね。そして平成七年にはいよいよ現代社会学部を設置されますが、これは従来の文系の枠を超えたもののようですね。

小林: ちょっと幅広くやりたいということと、将来的には工学系、理系教育にも広げていけるような素地をつくろうと、地域、産業、メディア、国際社会など多岐にわたる視点から「現代社会」にアプローチする学際的な学部としてつくったものです。
 ですから工学系の先生をたくさん入れましたし、昨年度で完成年次を迎え、五年目に入る今年からは環境都市デザインコースとメディアプロデュースコースなど四つのコースを設け、環境デザインの方ではかねてからの夢の通り、一級建築士の資格が取れるという、工学部建築科と同じものになります。

 ―この現代社会学部が設置される時、男女共学へと踏み切られましたが、これはなぜですか。

小林: 明治三十八年以来、女子教育の伝統がありましたから、反対もあって、本当に大変だったんですけど、新しい学部をつくるのなら、思い切って男女共学も視野に入れてつくりましょうと。いろんな人が集まり、その中でいろいろな価値観を見、切磋琢磨するところが大学です。それなのに女ばかりということはあり得ないですからね。

 ―近年、大学教育の在り方が問われていますが、その辺りはどのようにとらえておられますか。

小林: 一番大きなキーワードは大学が大衆化されたということです。私は昭和二十年生まれですが、私たちの世代の高校進学率は大体五割だったんです。今は大学進学率が五割。ということは、当時の高校と今の大学は一緒なんだと思っていないといけないんですよ。
 そして今後、六割、七割の人たちが大学に進学するようになれば、大衆化はさらに進み、卒業後はいろいろな仕事につくことになるでしょう。大学はリーダーを育てるところではなくなってきているんです。そこをきちっと確認して生徒の教育を行うことがこれからは望まれてくるのです。

 ―そのための工夫は。

小林: 皆、一律平等にやる必要はない、ということです。
 例えば英語なら、大学に入ったときに十二段階くらいに完全に能力別に分け、その後、能力が上がればどんどん上に上がっていけるという、能力によってはっきりとした目標のもてるシステムを採用している学部もあります。全員を一定以上までレベルアップさせるのは無理です。中には英語が嫌いな生徒がいたっていい。でも、本人がその気になったら、いくらでも支援する制度はありますよ、と。そんなシステムをつくっていきたいと思います。
 一方、数値化できない人間の生き方などの問題は、専門の先生がコミュニケーションを主体として、ゼミというものを充実させていくことが大事です。
 大学の教育というのは、この二本立てだと思うんです。

 ―それぞれの目標を実現するため、さまざまな選択肢があることが大切だと。

小林: ええ、大学というのは教え育てるところではなく、学生の学習を支援する場ではないでしょうか。在学中、語学でレベルアップする子もいるでしょうし、コンピュータでレベルアップする子もいる。専門をさらに極めたいという子もいる。クラブ活動に熱中したっていい。とはいえ、入学してきたばかりでは高校生の延長ですから、アドバイザーや担任が相談に乗れるようなシステムづくりを進めたいと思います。

 ―ありがとうございました。

*2000年4月から「コミュニケーション学部」と「文化創造学部」を開設しました。
(『時局』1999年6月号 「大学新時代 インタビュー記事」)