HOME > 学園長室 > 随想

随想

オリンピックと愛知淑徳(平成20年度「学園随想」より)

理事長 小林 素文

 壮大なスケールの開会式で始まった北京オリンピック。半年前の一大イベントも時代の流れの速さの中、遠い出来事のように思われる。だが、何人かの選手達のひたむきな姿は記憶に新しい。
 柔道・水泳もあるが、最も日本中を沸かせ、熱くさせたのは、ソフトボールでの優勝であろう。2日で413球の熱投をした上野投手は素晴らしい。しかし、ソフトボールはチームスポーツだ。チーム一丸となった結果だからこそ価値があるのだ。その栄光あるチームに、本校の卒業生伊藤幸子さんがいたのである。決勝では、試合にこそ出られなかったものの、いつでも出られる準備を怠らず、グランドにいる選手と一体となり、勝利を信じ、それに向かってひたむきに努力をしていた。そうした選手達全員で勝ちとった金メダルだからこそ、より輝き、日本中を感動させたのだ。
 伊藤幸子さんは、本校の誇る卒業生だ。
 おめでとう。


 本校出身のオリンピック選手は7人いる。
 今、愛知淑徳水泳学校で校長先生をしている岩井(旧姓神野)眸さんは、水泳で、メルボルン五輪とローマ五輪に出場した。水泳ではさらに、メキシコ五輪の小林美和子、ロサンゼルス五輪・ソウル五輪の中森智佳子、ソウル五輪の北野高代の3名がいる。バレーボールではソウル五輪の広紀江。ソフトボールは今回の伊藤選手は2人目で、アトランタ五輪に渡辺伴子が出場している。
 9回のオリンピックに7人の選手が出場したわけである。7人は9つの大会において、真に淑徳魂を発揮し、本校の栄誉を高めてくれた。
 ありがとう。


 7人の選手はいずれも戦後輩出したオリンピック選手である。戦前、愛知淑徳高等女学校はスポーツの黄金時代を築いていた。それなのにオリンピック選手が一人もいなかったのは不思議に思える。
 戦前においてもオリンピックは男性だけのものではなく、1928年のアムステルダム五輪では、人見絹枝選手が日本女性で初めて銀メダルをとったと称えられ、時にドラマ化されたりしているではないか。
 調べてみると、実はオリンピック選手と勝るとも劣らない生徒が高等女学校時代に本校にいたのである。井戸田きよ子さんだ。


 愛知淑徳学園百年史によれば、『井戸田選手は世界女子オリンピック大会の日本第3回予選で、800メートルで2分31秒の日本新記録を出し、最終予選でも優勝し、見事、ロンドンで開催される第4回世界女子オリンピック大会の日本代表に選ばれた。世界大会では、井戸田選手は予選を2分24秒7の日本新記録で通過、決勝は6着であったが、これまた日本新記録を更新する2分24秒1であった』とある。
 ここにあるロンドンでの世界女子オリンピックが開かれたのは1934年である。同じ800メートルで人見絹枝選手が銀メダルをとったのは6年前のアムステルダム五輪である。
 なぜ井戸田さんはオリンピック選手とはなれなかったのか。世界女子オリンピックとは何であったのか。インターネットで探ってみると、前回、4年前開かれたアテネ五輪の時に読売新聞が特集した「オリンピック物語第4部女性の戦い」が見つかり、その理由がわかった。(以下直接引用はここからである)


 『女性の五輪初参加は、1900年の第2回パリ大会だ。しかしこれは、パリ五輪が同年のパリ万博の一環として開かれ、どこまでが五輪競技でどれが万博の"余興"だったのかあいまいだった現実と、女性参加に強硬に反対していた時のクーベルタン国際オリンピック委員会(IOC)会長が、組織委とのさや当てで競技運営の実権を失った混乱に乗じた、「ちゃっかり参加」とでも言えそうな性格のものだった・・・(中略)・・・一般的には、米英仏など少なくとも5か国から11、12人ほどの女性が、テニス、ゴルフ、クロッケー、乗馬、ヨットなどに参加したとされている』
 依然として男性中心の戦前のオリンピックにおいて、初めて陸上競技で女子の参加が許されたのが、1928年のアムステルダム五輪である。この時に人見絹枝選手が800メートルで堂々の銀メダルを獲得したのだ。だが、女子800メートルはこの時を境に1960年のローマ五輪まで中止となってしまった。それは次の事情による。
 『1928年アムステルダム五輪で、紆余(うよ)曲折の末初めて試験導入された女子陸上競技。五種目のうち、注目の最長距離、800メートルレースの模様は各国で半ばセンセーショナルな報道を巻き起こした。「この距離は女性には負担が過ぎる。9人中6人がゴール後疲労で頭から地面に倒れ、数人が運ばれた」(ニューヨーク・タイムズ)・・・(中略)・・・こうした報道に後押しされて、以降女子陸上中・長距離種目の除外を決める。800メートルが再び日の目を見るのは1960年ローマ大会と、32年もたってからだ』
 本校の生徒であった井戸田選手が、当時日本新記録を出しながら、オリンピック選手とはなれなかったのはこうした事情があったからだ。
 オリンピックでは限定的にしか女性の参加が認められず、男性中心であった戦前において、女性も世界の檜舞台で活躍できるようにと、国際女性競技連盟会長 アリス・ミリアの努力により、1922年から1938年まで開かれたのが世界女子オリンピックである。
 井戸田選手はオリンピックには出ようにも出られなかった。だが、井戸田選手がその時の日本一の選手であることに変わりはない。IOC主催のオリンピック選手ではなくとも、世界女子オリンピック大会800メートルで世界第6位に入賞したのだ。井戸田選手がいたからこそ、戦後7人ものオリンピック選手が本校から生まれたのだ。その意味で井戸田きよ子さんを大いにたたえ、感謝をしたいと思います。
 ありがとうございます。


 最後に70年以上も前の井戸田さん自身による手記の一部を紹介します。

 『5月31日、私達一行は万歳の声に送られて、白山丸で神戸港を出帆致しました。・・・(中略)・・・8月11日、愈々最後の一日、此の日こそは死んでも戦はねばならない決勝の日。もう胸は試合の事で針をさされるやうに痛み、様々な思ひで一杯になって居ました。そして、あの5月29日、名古屋出発の時、皆様方から万歳の声と共にお送りして頂いたあの光景が、頭に幾度となく浮んで来て、私は嗚呼今日は死んでも戦はうと決心致しました。・・・(中略)・・・無我夢中でゴールに飛込みました。試合が終ってから、グランドの真中に立って居るので、何だか変な気持が致しました。こんな所へ何為に来たのかしらと考へ直して見ると、ぼんやりして居るのと疲れて居るのとで、自分の控室へ帰らうと思って来たのが、こんなグランドの真中なのでした。ハット思って戻り、漸く控室に帰りました。幸に6着で入賞しました。(雑誌『淑徳』より)』