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随想

校舎物語 (平成19年度「学園随想」より)

小林 素文

 昨年3月30日、星が丘キャンパスの中高校舎の全てが、3年間の工事期間を経てようやく完成いたしました。
 四月には、新入生を迎え、真新しい校舎で、生徒達も生き生きと学んでいます。
 100周年も終え、その事業も全て完了した今、感謝をこめ、校舎の歴史をたどってみます。

初の校舎は村役場

 明治38年4月に本校は、愛知淑徳女学校として開学しましたが、その時の校舎は、滝兵右衛門(当時名古屋銀行頭取)の持家であった西新町にある建坪150坪を250坪の土地とともに借りたものでした。当時はリサイクルが徹底しており、その建物は、田舎の村役場を移築したものでした。
 しかし、田舎の村役場であった校舎での授業は、わずか1年余りで終ります。一学級ではじめる予定が、入学希望者が多く二学級となり、早速校舎が手狭となったからです。

自前の校舎は小学校

 新たな校地・校舎をさがしていたところ、市立菅原小学校が改築するため、その校舎を譲り受けることとなり、東新町に1,000坪の土地を借り、そこへ移築することになりました。建坪は一階243坪・二階90坪の合計333坪となり、村役場であった旧校舎の二倍強となりました。
 当初4月の予定が、移築工事の遅れのため、明治39年5月から全て授業が旧小学校校舎で行なわれるようになりました。
 校地・校舎共に借り物であったのが、校舎だけは自己所有となり、明治41年と大正8年には校舎も増築され、順調に発展していきました。
 そして、大正10年、同窓会が、講堂を建設するための寄付金集めをはじめるようになりました。
 しかしそのことが、22年余りにわたる東新町での学校生活に終りを告げることになるのです。

講堂よ建て!

 同窓会が募った寄付金も順調に集ってきたため、大正12年講堂を建てる計画が発表されることとなりました。しかし、土地は借り物、地主の了承をえなくてはなりません。
 20年前には、麦畑や菜の花畑が広がる東新町の地が、名古屋市の中心部の一画を成すようになっていました。地主としては当然のことながら、学校に貸すのは益少なしとして、講堂の建設を認めることはありませんでした。
 この困難に創立者は「窮すれば通ず、又云ふ、禍を転じて福となす」と一大決意をもって自己所有の土地を捜すこととなりました。
 3年間模索し、ようやく池下蝮池の跡地を見つけ、これを購入することとなりました。敷地3,000坪、東新町校地の三倍です。
 財政難から、この池下の地に、東新町にある旧小学校校舎やその後増築した二棟を全て、移築することとしました。それも夏休みのわずか40日間でです。工事関係者はもとより、教職員、生徒、父兄総動員での大移転でありました。
 建物は相変わらず旧小学校校舎が中心ではありましたが、土地は自前となり、ようやく講堂工事が昭和4年に着手され、昭和5年3月、堂々完成しました。
 講堂完成は次の生徒の歌にもあるように、淑徳に関係する全ての者の喜びでありました。

講堂に入ればほのかにニスの香の
かをり来るにも心嬉しき
物言へば近くこだまの帰り来て
真白き壁にしみて消え行く

生き残った講堂・学舎

 太平洋戦争は名古屋にも押し寄せました。名古屋市内はほとんど空襲で焼け、多くの学校の校舎も消失していきました。
 そんな中、講堂や旧小学校校舎は生き残っていきました。
 淑徳の校地に焼夷弾が落ちましたが、幸い、寄宿していた陸軍少年航空機整備学校の少年兵約200名がプールの水を使っての懸命な消火活動により、校舎は焼け残ったのです。
 やがて終戦、淑徳はその校舎で新たな歩みをはじめました。

一新されていく学舎

 日本中が戦後復興されていく中、淑徳も力強く歩んでいきます。その象徴が校舎の増改築です。
 それは、五期にわたって行なわれました。第一期工事は昭和26年に木造二階建152坪、第二期工事は昭和27年に木造二階建130坪、第三期工事は昭和29年木造二階建250坪、第四期工事は昭和31年木造二階建360坪と続いていきました。
 そして、第五期工事として鉄筋四階建校舎が計画され、その試験杭が打たれるなど着々と整備が進んでいたとき、思いもかけない事態となり、31年余にわたる池下での学校生活は終をむかえることとなりました。

東洋一の校舎

 思いもかけない事態とは、市の計画により地下鉄工事が東山公園まで進められることにともない、その車庫用地として池下の校地を買収したい、断れば校地の三分の一程度、強制収用をするとのことでした。
 戦後の復興が四期工事まで終り、五期工事も始まろうとしていた時に、正に「青天の霹靂」でしたが、「禍転じて福となす」、戦後の新たな「高等学校設置基準」による校地面積の確保のため、昭和24年に購入してあった現在の星が丘の土地に英断をもって学舎を移築することとなりました。
 買い増しもされ、約4,000坪となっていた池下校地の四倍強の17,000坪の星が丘の地に理想の学舎をと、連日モデルスクールの見学に全国へでかけました。
 それだけでなく、世界の建築雑誌を取り寄せるなど意気軒昂でありました。
 燃ゆる思いで完成した星が丘学舎は、昭和23年5月17日付けの中日新聞に、「東洋一の高校校舎―淑徳学園で完工式」の見出しのもと、「・・・建物はいずれもセメントの地ハダを生かした北欧ふうのがっしりしたもの・・・放送室は・・・ちょっとした放送局なみ。・・・図書館コンクールに二年連続入賞した図書室は一脚5,000円の閲覧イスをそろえる超デラックスである・・・」と報じています。
 正に東洋一の校舎が完成したのです。

 その校舎も45年の春夏秋冬を経て、学園百周年を機に新たな校舎へバトンタッチされることとなりました。
 平成15年10月、とりこわされることとなった校舎を惜しみ1500名のOGが別れを告げにこられたのが印象的でした。

いきかはり死にかはりしてうつ田かな
(村上鬼城)