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随想

美人観の革命と創立者の娘達

理事長 小林 素文

 愛知淑徳学園は明治38年に創立されました。当時、義務教育は小学校だけで、現在の中学校・高等学校にあたる、男子の旧制中学、女子の高等女学校に進学できるめぐまれた環境の者は少なく、高等女学校への進学率は5%にも満ちていませんでした。
 当時小学校は男女共学でも、中等教育からは男女別学となっており、男子と女子の教育目標は異なっていました。
 高等女学校の教育目標は、明治32年樺山文相が「賢母良妻タラシムルノ素養を為スに在り」と述べているように、良妻賢母の育成にありました。
 創立者小林清作先生は、こうした国の方針に従いつつも、当時としては画期的な良妻賢母像を描かれました。
 家事や裁縫ができれば充分という当時の風潮の中、英語や理科を必須科目としました。それは、「今日教育して居る所の人は、今日只今間に合う所の人ではありませぬ。十年二十年前きに為って間に合う人であります」(明治38年6月)という教育方針をかかげていたからです。
 また、当時、高等女学校に進学できる生徒は良家の子女に限られており、そうした子女は「深窓の佳人」が望まれていましたが、創立者はこれに異をとなえ「由来東洋では、深窓の佳人だの、箱入り娘だのと云って、成るべく女子を外に出さぬ風がある。成るべく万事に控目にして、食を取るにも少しく取り、音声を発するにも大声を発しないと云うような女子を善いとする風がある。・・・(中略)・・・これからの女子はお姫様然として居ってはいかぬ。身体を強健にし、動作を活発にし、生き生きとしてあらねばならぬ」(明治38年12月)と、体育を奨励されました。
 大正の半ばすぎから、ようやく女子スポーツも盛んとなっていき、全国大会も行われるようになります。最初に対外試合に優勝したのは、大正七年のインドア・ベースボール(現在のソフトボール)でありました。
 創立者は、早速応援歌を作り、選手を激励いたしました。

音に名高き淑徳の
よりによりたる選手等が
心合はして戦はヾ
いかで勝たざることやある
守備にバンドにバッチング
日頃鍛へし腕前を
現はす時は来りけり
・・・・・・(後略)・・・・・・
(大正8年4月)

 その後ベースボールだけでなく、テニス、陸上、バレーボール、水泳と大活躍をしていきます。
 こうした競技スポーツには反対する父母の声も多く寄せられましたが、創立者は「美人観の革命」と題する次の文を書かれ、さらにスポーツを奨励されました。
 「淑徳でも、競技をすると手が太くなって困るとか、怪我をすると困るとか、中々少なからず苦情が出るのである。是等の人は旧来の令嬢らしいとか、箱入り娘を理想としている人で、全く新時代を解せざるものである。…(中略)…深窓の佳人式のものは、もう美人ではない。これからの美人は顔に壮健の色が漲り、均斉に発達したる肢体を有するものでなければならぬ。運動で鍛え上げたる生き生きした美人が持囃されてこそ、我が日本に興国の気象ありと云うべけれ」(大正12年12月)
 昭和に入ると淑徳のスポーツは多くの種目で全国制覇を重ね、輝かしい黄金時代を迎えることになるのです。


 創立者小林清作先生には四男五女の9人の子供がいました。
 長女には清作の一字をとり清子、次女には淑徳の校章から徳子、三女は淑子、四女は知子、五女には愛子と名付けました。次女から五女は逆から読めば「愛知淑徳」となります。
 徳子は淑徳の庭球部の主将をつとめ優勝旗を頂いています。平成2年に発刊された庭球部誌『愛知淑徳庭球部』に次の詩を寄せています。

テニスボールは空高く
ポンポンポンの音さえて
リズムに合せて打つ気持ちよさ
からだ中の熱き汗
肌をつたわる気持よさ
身体一ぱい みちあふれ
わが青春は テニスのみ。

 淑子の娘御田寺敦子はテニスで全国制覇をしています。
 知子は、シングルス・ダブルス共に全国制覇を果たしました。庭球部誌に「コーチから父に、貴方の娘さんは素質がないのだからやめさせたらと忠告があったそうです。」と述べているように、努力の積み重ねで日本一になりました。
 愛子は庭球部に入ったものの在学中は足の裏が腫れる病気のため活躍できませんでしたが、卒業後テニスクラブに入り腕を磨き、姉知子と組み全日本ダブルスで優勝いたしました。
 愛知淑徳の一字をとった創立者の娘達は、創立者が奨励し、美人観の革命をとなえたスポーツで、淑徳魂を発揮されたのです。


 創立者の四女知子さんが、昨年10月13日にご逝去されました。101歳の大往生でした。弔辞を頼まれましたので、淑徳での活躍ぶりにふれさせていただきました。
 「知子おばさんは創立者小林清作先生の四女として、一世紀余前に誕生されました。14歳で淑徳に入学され、テニス部に入られました。上達が思うようにならないとき、校長先生であった清作先生に『人が百本打つなら千本打ちなさい』と諭され、それを実行し、やがて全国大会で優勝を重ねるなど、『中京女子庭球界の花』と称えられるまでになられました。
 愛知淑徳には『淑徳魂』と今に受け継がれる精神があります。それは負けじ魂であり、知子おばさんは、まさにその精神を学園に根づかせてくれた誇るべき卒業生の一人なのです。理事長として心より御礼を申し上げます。
 ありがとうございました。」


 こうして、歴史をふりかえってみると、あらためて、愛知淑徳が百年をこえ今も輝いておられるのは、それぞれの時代に光輝く存在になろうと、夢を追い懸命に青春を送ってくださった生徒・学生達のお蔭であることに気づかせてくれます。
 今、校舎に集う生徒の皆さん、お一人おひとりが、生き生きと、溌剌と、夢を追い、夢を求めて、青春を送られることにより、伝統を受け継いでくれることを祈りたいと存じます。