式辞

平成29年度 卒業式 学長式辞

 皆さんのご卒業を心よりお祝い申し上げます。おめでとう。皆さんの四年間の学習の努力の積み重ねが本日の晴れやかな旅立ちの日を迎えることになりました。その貴重な積み重ねに対して、私は心からの祝福を贈りたいと思います。同時に、皆さんの大学生活を物心両面から、しっかりと支えて下さったご家族の皆さまにも深い感謝と敬意の念を表したいと思います。また、お忙しい中、本日の晴れの式典にご臨席たまわった来賓の皆さまに、篤く御礼申しあげます。


 さて、本日の卒業にあたって、私は皆さんとほぼ同じ年齢だったころ、四十年以上も前の自分自身のことを出来る限り思い出そうとしてみました。ところが、年表的な事実関係はなんとなく思い出すのですが、私にとって一番大切なはずの心の具体的な記憶がかなり怪しいものになっていたのです。これには自分でも愕然としました。年表的な事実をたどれば、私は皆さんの年齢の時にはすでに父を亡くしていました。正確には私が二十歳の時に父は突然倒れ、三ヶ月ほど入院して亡くなりました。五十歳でした。母、結婚を間近に控えた姉、高校生の弟、それに大学生の私の四人の家族が遺されました。父はごく平凡なサラリーマンでしたから、そう多くの蓄えがあったわけでもありません。普通に考えれば、二十歳そこそこの私は今後のわが家の暮らし向きを思って途方に暮れ、悲しみと不安に沈んでいたと想像されるのですが、その心の記憶がおぼろげになっていたのです。

 たぶん、人間はつらい体験を少しずつ忘れてしまわないと、前を向いて生きていけないのだろうと思います。二十歳になるまで私は苦労らしい苦労をほとんどしたことがなかったので、父の急死と経済的支柱を失った生活の不安にかなり打ちのめされたのでしょう。父のいない不安な生活を忘れよう、忘れようとしていたのかも知れません。しかし、いくら忘れようとしても、父の不在と経済的支柱を失った生活は動かしようのない現実です。そこで常識のある学生であれば、大学卒業とともになるべく有利な就職をして、母や弟、さらに父の遺した家を守るというような方向を選ぶのでしょうが、なぜか私は大学院に進学してしまいました。

 このあたりの心理もよく覚えていないのです。私は国文学をわりあい熱心に専攻する学生だったと思いますが、経済的な困難をかえりみず、周囲の反対や自分自身の後ろめたさを押し切ってまで、真剣に国文学を学び続けたいとまで思いつめていたかどうか、今となっては自分でもよく分からない選択であったと思います。非常に単純化してしまうと、記憶にも曖昧な、その選択をきっかけとして、私は国文学研究の道を無器用に歩み続ける、というか、そこにしか居場所がなくなって、現在に至るわけです。しかし、結果的には、母を始めとする家族が困窮に陥ったというようなことは一度もありませんでした。ただし家は売ってしまいました。収入のない母や若い私が維持するには大きすぎる土地建物でしたから、仕方のないことだったと思っています。そういうことも含んだ上で、あえて大学院に進み、国文学の世界を自分なりに追いかけてきたことは私にとっては間違いではなかったと思います。


 何かすごくいい加減なわが半生を語っているようですが、私が皆さんに感じ取って頂きたいのは、人生はなるようになる、あるいは、なるようにしかならない、ということです。おそらく若かった私は、不安や恐れに縛られて、先行きをあれこれと否定的に考え込み、その否定的な考えと必死に戦いながら、とにかく、まずは何かに向かって一歩踏み出そうとしたのではないか、と思います。その頃のそんな漠然とした感じは、後に、ある短歌に出会って初めて言葉になりました。こういう短歌です。

  何をさは苦しみてわれのありけるぞ立ちて歩めば事なきものを

 窪田空穂という明治生まれの歌人の一首です。『濁れる川』という三十代の歌を集めた歌集の中にあります。文語で歌っているので、現代口語で言い換えますと、何をそんなに俺は苦しみ続けていたのだろうか、今にして思うと、立ち上がって歩き始めさえすれば、大したことでもなかったのに、というほどの意味です。私は今でも、ちょっとでも思い悩むことがある時には、この歌をくちずさむことがあります。

  何をさは苦しみてわれのありけるぞ立ちて歩めば事なきものを

 たぶん私は、若くして父を失ってしまった不安や悲しみを、深く否定的なものとして考え込んで立ち止まるということもせず、とにかく立ち上がって歩こう、歩かなければ何も始まらない、と思っていたのではないかと思います。この歌に出会った時に、そうだったのか、となんとなく合点が行きました。別な観点からいえば、人生には苦しんで考え抜かねば解決できない、というような難しいハードルなどはない、無謀に見えようが、身の程知らずと言われようが、まず積極的に一歩を踏み出せば、おのずから道は開ける、ということになります。つまり、立ち上がって歩き始めれば、なるようになるのです。

 へたりこんだままで、ああでもない、こうでもないと苦しむよりは、エイッヤッと気合を入れて立ち上がり、いくらか明るい方向に向かって歩き始めること――「何をさは苦しみてわれのありけるぞ立ちて歩めば事なきものを」――この窪田空穂の大好きな歌を、新しい人生に向かって一斉に旅立つ皆さんへの、はなむけの言葉としたいと思います。

平成29年3月16日

学長 島田修三