式辞

令和5年度入学式 学長式辞

 新入生の皆さん、ご入学、おめでとう。本日の皆さんのご入学を心から歓迎いたします。ご臨席の家族の皆さまにも深い祝意を申しあげます。また、お忙しい中をこの式典にご参加たまわった来賓の皆さまにも篤く御礼を申しあげます。

 皆さんの多くは、高校生活のほぼ大半を新型コロナウイルスの世界的な感染拡大のもとで送られたはずです。外出時や人前では必ずマスクを着けることから始まって、授業はもちろん、クラブ活動や課外活動、クラスメートたちとともに取り組むはずだった年間行事、あるいは学校を離れて自由に活用できたはずの長期休暇など、すべての場面でコロナウイルスによって重苦しい制約をかけられて来たことと察します。実は大学もほとんど同じような事情を抱えながら、この鬱陶しい災いの三年間と向かい合って来ました。

 その仔細については、これからさまざまな形で皆さんの先輩や教職員から語られると思います。ここでは、まず皆さんに、もう今までのような制約と禁止にまみれた大学生活はほぼ終わりを迎えた、と告げておきたいと思います。ウイルスの予想外の反撃も想定に入れておかねばなりませんが、とりあえず、この四月からは、かつて多くの先輩たちが当たり前に経験した、自由で伸びやかな大学生活が戻ってまいります。私はそのことを、まず、皆さんに告げたいと思っておりました

 さて、大学についてお話ししましょう。愛知淑徳大学には、「違いを共に生きる」という大学としての理念があります。それは学生の教育理念でもあり、また大学を運営するわれわれ教職員も絶えず意識するべき考えでもあります。理念というと堅苦しいイメージを抱く人もあるかと思いますが、皆さんひとりひとりに例えてみましょう。例えば、自分は偏見を持たずに誰とでも仲良くしたいものだと思っている人がいる。あるいは、自分を積極的に鍛えて、どこに出ても物怖じしない人間になりたいと思っている人もいる。あるいはまた、未知の領域に対して絶えず強い好奇心を抱き続ける人間になれればいいと思っている人がいる。大らかに構えて、物事を決して悲観的には考えない姿勢を身につけたいと思っている人もいるでしょう。こんな風に例を上げて行くと切りがありませんが、皆さんも、なりたい自分、実践して行きたい理想や向上心を持っておられるでしょう。

 実は大学の理念とは、それと同じことなのです。愛知淑徳大学は大学として「違いを共に生きる」ことの出来る学生を四年間かけて育てたいと考えており、われわれ教職員もそれに一歩でも近づける道を学生とともに切り開きたいと思っているのです。

 いまここに新入生として集まった皆さんは、いうまでもなくお互いに「違い」を持った存在です。それは男女の差や身体的特長のような「違い」もあれば、国籍や人種、民族といった「違い」もあります。明らかに眼に見える「違い」もあれば、容易に表面に現われない「違い」もあるわけです。仲のいい友人や恋人同士でも、自分たちは相性が良く気が合う、と確信していても、例えば、そこにお互いの家族が介入して来ると、相手が信じて疑わない、その人の家の生活習慣や生活文化にこちらは驚いてしまうこともある。皆さんが友人の家庭の食事に招かれて、友人の家族が食前にこうべを垂れて、祈りの言葉を唱え合うとします。敬虔なクリスチャンの家庭はそうなのかも知れませんが、ふつうの日本の家庭はそういう食前儀式はしません。その違和感がきっかけで相手から気持ちが遠ざかってしまう人もいれば、キリスト教に興味を抱く人もいることでしょう。

 皆さんひとりひとりを基準として考えると、小さな身辺日常から地球規模のスケールに至るまで、世界はおびただしい「違い」に満ちています。皆さんにとって「違い」そのものである外部の存在は、逆にその存在から見れば、みなさん自身が「違い」そのものだということになります。つまり、世界は厖大な複数の「違い」で成り立っているとするのが、現実の真の姿に近いと私は考えております。

 もう、おわかりでしょう――。私たちがこの「違い」に満ちた複雑な現実をつまらぬ争いや偏見を持つことなく、聡明に健やかに生き抜くためには、それぞれの「違い」を正確に知り、深く理解し、柔軟に受け入れることが必要なのです。本学の「違いを共に生きる」という理念はこういう人間のあり方を目指しております。

 私たちは、まず「違い」を知り、「違い」を理解しなければなりません。「違い」を恐れ、「違い」に背を向けてしまうことではいけない。そのためには是非とも、この四年間で知的な好奇心や理解力を皆さん自身の手で育てて行ってほしいと私は願います。つまり知性を大切にする人間に育ってほしいと願うのです。

 では知性とは何か――。知性とは言葉です。言葉の力です。それ以外の何物でもありません。知性は必ず言葉の上に現われ、また言葉の力として現われます。私は日本文学研究者であるかたわら、若いころから短歌を作り続けて来ました。私の歌作りの師匠筋に窪田空穂という歌人がおります。この人がこんな歌を残しております。言葉というものを正確に言い当てた歌です。読み上げて見ましょう。

理解より愛は生まれ来(く)われら皆黄金(こがね)の鍵の言葉もつなり

 『卓上の灯』という歌集に入っている一首で、昭和二十八年、窪田空穂七十六歳の時の作品です。若いころの私は、この歌になんとなくお説教臭さを感じて敬遠しておりました。
しかし、いつだったか、言葉というものの意味を考えていた時、この歌がすっと思い浮かび、心の中に無理なくおさまったのです。窪田空穂の一首は、散文的に補うと、こんなことをいっているはずです。人間同士の愛というものは理解から生まれて来る。理解がなければ相手を愛することは出来ない。確かに、自分とは異なる人間、とりわけその人となりや心を理解するのは困難なことだが、私たちには言葉があるではないか、言葉という黄金の鍵、万能の鍵は、たとえどんなに固く閉ざされた心でも必ず開けることができる――。

 多くの「違い」のある人間でも理解さえ出来れば、そこに相手への愛や敬いが生まれて来るものだ、その仲立ちをするのは言葉以外の何物でもない、と空穂は歌っているわけです。とはいえ、私たちはすでに日本語という言葉を修得しているし、それは十分に黄金の鍵ではないか、というと、そうではありません。私たちの言葉が黄金の鍵となり得るのは、豊かな知識、失敗をも含む多くの経験、正確な情報、そして誰もが納得する柔軟な智慧の裏付けのある場合だけです。そういうものとしっかりと結びついた言葉こそが、黄金の鍵になるのだと考えてください。

 黄金の鍵となる言葉を獲得して行くには、まずは何事に対しても敏感なアンテナを張りめぐらせる知的好奇心がどうしても必要になります。大学の四年間は皆さんが真に知的な人間に育って行く猶予期間ともいえます。なぜロシアはウクライナに軍事的な侵攻をしているのか、という世界政治レベルの問題から、なぜ現代人は際限もなく商品の消費を繰り返して生活しているのか、人間にとって宗教とはどんな意味があるのだろうか、明治の近代化は日本の固有文化をどのように変えてしまったのだろうか――といった疑問に至るまで、皆さんの周りには知らなければならない、というより知っておいたほうが良い知的な課題が夥しく取り巻いています。

 どうか、皆さんの好奇心や関心が向かう知的な課題に果敢に取り組んで行ってください。大学生活四年間を活用して、そのプロセスや結果を説得力のある、豊かな言葉で表現できる人間に育ってほしいと私は心から願っています。おそらく、その時、皆さんが育てた力ある言葉は―つまり知性そのものですが、固く閉ざされた他人の心を開ける黄金の鍵になっているかも知れません。そこから「違いを共に生きる」道が見えて来るはずです。もう一度、窪田空穂の歌を読み上げます。

理解より愛は生まれ来(く)われら皆黄金(こがね)の鍵の言葉もつなり

 皆さんが、大学生活の初日である今日から「黄金(こがね)の鍵の言葉」を身に着けることを、心のどこかで絶えず意識していてほしいと私は期待しています。知性を磨き、言葉の力を信じる。そして、どんな「違い」にも臆せずに正面から向かい合い、理解し、「違い」ある対象を愛せるような広々とした人間に育ってほしいと願っています。

令和5年4月2日

愛知淑徳大学 学長 島田修三