式辞

平成30年度 卒業式 学長式辞

皆さん、ご卒業、おめでとう。
4年前には、まだ少年少女の面影を残していた皆さんが、それぞれ大人の面持ちで、本日の門出の日を迎えました。
四年間の学びの歳月が、おぼつかなげに見えていた少年少女たちを、実社会に出で立つ、頼もしい姿に変貌させたといえます。

この日を迎えた皆さんに、私は心からの祝福を贈りたいと思います。
同時に、皆さんの大学生活を物心両面から、しっかりと支えて下さったご家族の方々に、深い感謝と敬意の念を表したいと思います。
また、お忙しい中、本日の晴れの式典にご臨席たまわった来賓の皆さまにも、篤く御礼申しあげます。


私は3月に入ってしばらく、皆さんの門出に相応しい、はなむけの言葉を考えていました。しかし、異なる個性や意思をもった2000人を越える若者に届きそうな深く広い言葉は、なかなか思い至らないものです。考えあぐねているうちに、そうか、と思いました。
自分が若いころに心を打たれた本について語ればいいのではないか、と思ったのです。
そう思ったとたんに、一冊の忘れがたい本が甦って来ました。
その本について、当時の私と同じように若い皆さんに、率直に語ろうと思います。

その本の名は『ちょっとピンぼけ』(SLIGHTLY OUT OF FOCUS)といいます。
タイトルで想像がつくでしょうが、ロバート・キャパという報道写真家が書いたものです。
彼はハンガリー出身のユダヤ人でした。
この本は第二次世界大戦中のヨーロッパの最戦線で 命がけの仕事をしたキャパという一人の人間の記録です。
記録といっても、硬い本ではなく、切なく甘やかな恋愛のエピソードや、兵士たちとの交流なども描かれた、人間の匂いにあふれる面白いドキュメントといえます。
ロバート・キャパは、1942年夏に、アメリカの週刊誌『コリアーズ・ウィークリー』から報道写真家としてヨーロッパ戦線の特派員を依頼され、ロンドンに渡ります。
ここから『ちょっとピンぼけ』は本格的に始まります。
最初はイギリス陸軍とともに北アフリカ戦線に従軍、ムソリーニに率いられたイタリアの降伏というような歴史的瞬間に立ち会ったりします。その間、最前線で多くの戦場写真を撮り、『コリアーズ』や『ライフ』などの雑誌に送ります。リアルなヨーロッパの戦争の姿を伝え続けたわけです。その後、再びロンドンに戻り、1944年6月6日の「Dデイ」に参加します。
「Dデイ」というのは、アメリカ・イギリス・フランスなどの連合軍が、フランスを占領しているドイツ軍に反撃を開始する日の暗号名のことです。キャパはアメリカ陸軍歩兵部隊の兵士たちとともに、ノルマンディ海岸に敵前上陸します。
地上戦では歩兵部隊が最も危険にさらされやすいと言われますが、キャパはあえて歩兵部隊と行動を共にします。しかも、上陸地点はドイツ軍の武装の最も堅固だとされたオマハ海岸というビーチです。オマハ海岸というのは軍事上の暗号名で、フランスの地名としてはサン・ローラン・シェール・メール海岸というのだそうです。
歩兵部隊は 上陸用舟艇で海岸の水際ぎりぎりまで行き、そこから兵士たちは一斉に陸に向かって突撃するわけです。海岸の崖の上からドイツ軍の猛烈な砲撃、銃撃が始まるのですが、兵士たちの上陸した海岸にはほとんど隠れる場所がなかったとキャパは書いています。
そういう危険な最前線で、キャパはコンタックスというカメラで連合軍兵士の戦う姿を撮り続けました。百六枚撮った画像でまともに映っていたのは 八枚だけ、しかも それらは海岸に押し寄せる波にもみくちゃにされ、恐怖に耐えながら震える手で撮影したため、どれもピンぼけ写真だったようです。書名のいわれはここから来ているのだと思われます。
若かった私が心を打たれたのは、オマハ海岸に上陸したカメラマンはキャパ一人きりだったという事実に対してです。実際にロバート・キャパは雨、霰と飛んで来る弾丸の中で命がけで撮影していたのでした。上陸作戦に参加した他のカメラマンは、沖合の安全な船の上から望遠レンズを使って海岸の激戦を撮影していました。この上陸作戦は成功して、その後、皆さんもご存じのように、連合軍はパリを解放し、ヒトラーのいるベルリンに向かいます。キャパも連合軍と行動を共にしますが、ここでも、もうひとつ私の心を打ったことがあります。
連合軍はベルリンに向かってライン河、オーデル河という二つの河を越えますが、2つの河にはドイツ軍が撤退する際に殺戮した捕虜のしかばねが累々と浮かんでいた、というのです。おびただしい数の報道写真家たちがドイツ軍の残虐、戦争の悲惨といったテーマで、そのすさまじい地獄のような河の情景を撮りまくり、新聞社や雑誌社に 特ダネとして次々と送ったわけです。しかし、キャパはライン河やオーデル河の痛ましい写真は一枚も撮っておりません。無抵抗のまま殺されて河に投げ捨てられた連合軍の捕虜や市民たちのむごい姿は、ほんのしばらくは新聞や雑誌の写真を見る人々に衝撃を与えるだろうが、すぐに忘れられるだろう。そんな写真を安全が保障されている場所から撮りたくはない、というようなことをキャパは さり気なく書いています。
私はここにも強く心を打たれました。
つまり、キャパは自分の身を安全圏に置いて、戦争の悲惨や恐怖、人間の非道さや残虐などといった観念を写真にしたくはなかったのです。

『昆虫記』で有名なアンリ・ファーブルは「自然の美しさ」などというものはない、「美しい自然」があるだけだ、と書いています。
おびただしい昆虫観察の果てにファーブルが辿りついたのは、「自然の美」などという抽象的な観念ではなく、自分の肉眼で観察した美しいもの、そうでないものも混ざった個々の昆虫の具体的な姿だったのです。

キャパの『ちょっとピンぼけ』に私の心が打たれたのは、命の保障のない戦争のような危険な現実を わが身を通して具体的に知ろうとした姿勢であり、誰もが考え、簡単に口にするような「戦争の悲惨」といった頭の中の観念を信じなかった姿勢だろうと思います。
こういう姿勢を貫くのは、ほんとうに勇気の要ることだと思います。
言うまでもなく、国家的な暴力であり、殺戮である戦争などということは経験しないに越したことはありません。戦争は絶対に在ってはならないことです。

しかし、皆さんがこれから生きて行く実社会には、時には戦場に喩えられるような苛酷な現実があるかも知れません。そういうつらい現実のもとで生きていく勇気を失ったり、働く意欲が途切れそうになったりした時、この一冊の本はこころ強いエールになると思います。
今でも文庫本で簡単に手に入ります。どうか、この本のタイトルを頭の隅に記憶しておいてください。皆さんの新しい門出にあたって、私は若い頃から愛読している一冊の忘れがたい本を紹介しました。ロバート・キャパという報道写真家の生きる姿勢のどこに心を打たれたか、憚ることなく率直に語りました。

これをもって、皆さんへのはなむけの言葉としたいと思います。
皆さんの今後の活躍を祈ってやみません。

平成31年3月20日

学長 島田 修三